波 瀾 万 丈

東山寺の三尊像に襲い掛かる幾多の難題

恐るべき叡智と覚悟で立ち向かった東山寺集落のご先祖達

 六百年間に亘る波瀾万丈の知られざる三尊像の歴史物語

 

山寺薬師堂及び三尊像が三善讃阿によって、現在の場所に築造されたのが、明徳5年~応永3年(1394~1396)の三年間。

それから百年程経過した。

時代は、戦国動乱期。

浄土真宗(一向宗)の門徒や僧侶が中心となり、守護大名や織田信長などの領主権力に激しく抵抗した時代。

1506年、長尾為景(ためかげ)の父、長尾能景(よしかげ)は越中守護畠山氏からの要請を受け越中へ出陣したが、越中の国人神保慶宗(じんぼうよしむね)が一向一揆と結託して裏切ったため戦死。

家督を継いだ長尾為景は、父の仇である神保慶宗を討つべく、何度も越中へ侵攻し、1520年神保慶宗を自害に追い込んだ。

更に、長尾為景は、越後国に於いても、一向宗を厳しく扱うことし、永正18年(1521)に、一向宗禁制の『掟の事』を厳命した。

 

一方、越後板倉三善家は、恵信尼の生家でもあり、流人親鸞を擁護していたし、又、親鸞は一向宗の宗主でもあったことから、一向宗と強いかかわりが有った。

長尾為景の一向宗禁制の情報を事前に察知した三善家当主は、夕刻、一族全員を屋敷に呼び寄せた。

<三善家屋敷>

「よいか。今夜、子(ね)の刻。我ら一族、この館(やかた)も所領も一切を捨て、夜陰(やいん)に乗じて落ちるぞ」

「承知いたしました。‥‥して、いずかたへ向かわれまするか」

「出来る限り少人数に分かれよ。各々(おのおの)別々に、北をめざせよ。・・・為景の刃(やいば)に掛かってはならぬ」

<峠を越えて、越後板倉を振り返る三善一族>

こうして、三善家一族は、密かに、誰に知られることもなく、上越板倉から突然消えたのである。


<春日城内>

「御館(おやかた)様ッ!」

「何事ぞ!騒々しい!」

「板倉領主三善一族昨夜(よべ)一族郎党連れて逃げしました。門徒衆も一人も残っておりませぬ」

「・・・なんと。・・・逃げたか・・・」

「如何いたしましょう。今なら間に合いまする。追手を差し向けましょうか!」

「・・・ふん、うむ。捨ておけ。追いかけて切るまでもないわ。奴は領地を差し出して消えたのだ。我らの手間が省けたわ」

 

そして、その日、越後守護代長尾為景が『一向宗禁制令』を発令した。


こうして、三善家一族が上越板倉からひとりも居なくなった。

しかし、残された山寺薬師堂の三尊像を参拝する人々は減ることは無かった。

これまで、百年以上の間、三尊像や薬師堂の維持管理を担ってきた三善家は、もう板倉には戻って来ない。

 

更に、誰もその行方すら知らなかった。

 

その内、極自然に、山寺薬師堂に最も近い山寺村(現東山寺集落)が、境内の落ち葉掃除や堂内清掃などを自発的に行うことになった。

そして、参拝者からの供物料も、山寺薬師堂や三尊像の維持管理に充てることとなった。

山寺薬師堂は、山寺村民の善意により、民衆信仰として、高田藩からことさら注目されることもなく、脈々と続けられてきたのである。

 


そして、また、何事も無く、百八十年程が過ぎた。

高田藩に重大な事件が発生する。

世にいう『越後騒動』である。

高田藩越後中将家は、徳川御三家に次ぐ家格だった。

この高田藩越後中将家に於いて、跡目争いが勃発したのである。

これを『越後騒動』というが、江戸幕府からの御沙汰は、越後中将家は改易、高田藩は幕府直轄領とする』だった。

その後、1682年に高田藩全域で江戸幕府により検地が行われた。

<江戸幕府による越後の天和検地>

この検地を『天和検地』という。

 

その検地の結果

 

『山寺薬師三尊は、高田寺町花園寺の除地(じょち)とする』

 

だった。

 


突然、天から降って湧いたかのような江戸幕府の御沙汰に山寺村民は途方に暮れた。

花(華)園寺は、昔は山寺に在って山寺五山の管長寺であった。

江戸幕府からの御沙汰は

 

『今後は、花園寺が山寺薬師堂の所有者である』

 

というのだ。

『除地』というのは、年貢が免除されるという意味である。

つまり、

 

『参拝者からの供物料は、全て高田花園寺のものである』

 

ということだ。


このことを知らされた山寺村民は、何日も何日もかかって、対応策を議論した。

そして、山寺村民がようやく絞り出した究極の秘策はこうだ。

 

当時、山寺薬師堂の裏に『山王(さんのう)神社』が有った。

そして、山寺村は全世帯が山王神社の氏子であった。

 

 

山寺村民が考え抜いて編み出した究極の秘策はこうだ。

 

 

『薬師堂は、山王神社の神主が管理している』

 

そして、

 

『山寺薬師堂』の名称を『山寺薬師社』

 

に変更した。

 

つまり、

 

『三尊像は神社であるから、お寺である花園寺の所有権は及ばない』

 

としたのだ。


ここまでやっても、山寺村民はまだまだ不安だった。

戦う相手は、江戸幕府なのだ。

もっと、確固たる既成事実が必要だと思った。

 

かって、三善讃阿様が奉納した三尊像には、台座と光背が無い。

そこで、山寺村民は、台座と光背を奉納することに決めた。

<山寺村民によって奉納された台座と光背>

そして、

 

『山寺薬師堂の三如来は神様である』

 

ということを薬師如来の台座と光背に墨書することにしたのだ。


しかし、ここまでしても、まだまだ不安が残った。

山寺五山の筆頭寺は、紛れもなく『花園寺』である。

これは事実であり動かしようもない。

その当時、山寺にあるお寺は、猿供養村にある『猿供養寺』だけだ。

<江戸時代の猿供養寺の絵図面>

(常楽山(たけのやま)の麓に描かれている)

猿供養寺は、山寺五山では三番目のお寺であるが、集落の古老の言い伝えによると花園寺が建立されるよりも前に、猿供養寺が先に建っている。

山寺村民は、ここに注目した。

 

『山寺五山の筆頭寺よりも、山寺三千坊の筆頭寺の方が格は上』

 

つまり、猿供養寺は、山寺三千坊の筆頭寺であるから、山寺薬師堂は

 

 

『猿供養寺の山寺薬師社である』

 

としたのだ。

 そして、この旨を、台座と光背に墨書きしたのだ。

 

三尊太い木(だいき=台座)後光(光背)共に再刻

 

越後山寺猿供養寺ノ三尊也

 

旨之三千坊仏也

 

台座と光背には制作年も墨書きした。

 

宝永二年九月吉日

 

宝永2年は、1705年である。

<薬師如来光背の表の墨書き>

更に、薬師如来の光背の表にも、参拝者の誰からも見えるところに、大きな文字で

 

大名持尊

 

須久名彦尊

 

と神様の名前を書いた。

 

この山寺村民の秘策と執念には、誰もが驚きを感じ得ないであろう。


この秘策が功を奏したのか、それから百年近くは何事もなく従来の侭経過した。

 

山寺薬師社への参拝人は、前にも増して多くなった。

ところが、1814年の文化11年、高田花園寺が山寺村に『薬師三尊像を移動し、出開帳を開きたい』と打診してきた。

<高田花園寺からの来訪者>

 山寺村民は、『古仏霊尊』で罰があたったら大変だとして村中で拒否し、管理者の神主長嶺河内に『村極(むらぎめ)』を提出させ断固拒否を貫き通した。


明治時代になった

明治時代になって新政府から、明治2年6月13日に『社寺領五ヶ年歳入平均ヲ録上セシム』という通達が出た。

この通達は、山寺村民にとっても、山寺薬師三尊像にとっても、またまた一大事件となった。


村長が役場に村人全員を集めた。

 

「さーて。なじょしたもんだろな」

「お上の御沙汰だすけ、従うほかねえべえ」

「だけどもよお・・・。徳川様の時分(じぶん)のお達しじゃ、薬師堂は花園寺の除地(よけち)となってるんだんがな」

「神主様は、山王(さんのう)様と薬師社で録上(ろくじょう)すべきであると言っておられるぞ」

「いやいや、俺(おら)たちは薬師堂と猿供養寺で出すべきだと思うんだが。なじょだ?」

「そうだわな。薬師様の台座と光背に書いて有る墨書きこそが、ご先祖様の御意志(ごいし)だもんな」

「それしかねえべえ。神主様には悪いんだども」

『花園寺の方は、なじょするべか」

「なじょもこうもねえで。帳面(ちょうめん)はみんな俺(おら)たちのとこにあるんだ。花園寺にやあ、報告なんかできっこねえわ」

「じゃー決まりだ。皆衆(みなしゅう)それでいいがい?」

「あー(承知した)」


(注)

明治2年6月の通達は、日本政府が全国の神社やお寺の経済状況を正確に把握しようとした調査命令。

明治3年12月の通達は、神社やお寺が所有している広大な領地を強制的に国に返還させる通達で『第一次上知令』という。


『寺野郷土誌稿』の山寺村(寺野村東山寺)薬師堂の項には

 

封建時代 仏供 四十八石四斗六升七合 外に猿供養寺より三石余りの収入ありしが 明治三年二月政府に返上し 一時逆境に立ちしも 信徒陸続として至り、法燈光を増し 仏教興隆 年と共に加はる。


山寺村民は、この明治2年6月の通達に従い、山寺薬師堂と猿供養寺の供物料(お賽銭)を明治3年2月、明治政府に報告した。

この時、山寺村民は、山寺三尊像の所有権や維持管理は、明治新政府に全て託し、放棄すことを覚悟したのだ。

 

明治政府に報告した九ケ月後の明治3年12月に『第一次上知令』が通達され、その通達内容が明らかになる。

『第一次上知令』の通達内容は、『神社や寺が所有していた領地』が対象だった。

 

山寺薬師堂には、境内は有るが領地は無い。

猿供養寺も猿供養集落に建っているが領地は無い。

そもそも、報告者の山寺村民は地方自治体の村民であり、神社でも寺でも無い。

つまり、山寺薬師堂も猿供養寺も『第一次上知令の対象外』だったのだ。

この結果を知った山寺村民は、歓喜の祝杯を挙げた。

そして、この時から山寺薬師三尊像は、正真正銘

 

 

『山寺村(現東山寺集落)が所有者』

 

 

 となったのである。

 

めでたし めでたし!


お し ま い

                                                                                                                                                                                                                                                              文   絵    :眞田弘信(たけのやまファンクラブ)

                                                                    監   修    :板倉区東山寺集落の皆さん                                                                                                                           特別監修    :三善啓昭(三善家宗家当主)

【参考資料】

寺野郷土誌稿 寺野村 

中世の越後三善氏 三島義教著

板倉町史 板倉町

板倉町史集落編 板倉町・東山寺集落

新潟県の歴史 井上鋭夫著

中世の頸南 井上鋭夫著

親鸞 松野純孝著

山寺関係文書 永徳28

頚城文化58号(親鸞と恵信尼特集号) 上越郷土研究会編

ゑしんの里いたくら歴史散歩 板倉郷土誌愛好会

山寺三千坊調査書 長嶺義丸書筆